第6話 宮中晩餐会と出前の御用達(3)
碩学を偲びながら御用達の美味三昧と行きたいところだ
以前に比べ、国内メディアの中国に関する露出が増えている。それだけ同胞の取材能力が向上したと素直に喜んでいいのか、それとも彼の国が取材規制を多少緩め始めたのかは知らない。
権力批判はマスコミの本領だ。しかし千篇一律の批判にはチト歯痒い思いがする。中国への様々な報道に、私は多少の土地勘が有るので、これらを「十目の視る所、十指の指す所」と伝える事実は十分に理解ができる。しかし、論調や行間にアジアの同胞、隣人としての視点や、温かい包容力が見えないようでこれが何とも寂しい。加えて、我が国論輿論の形成に影響を与える、マスコミの懐深さも窺えない気がするのは何故だろう。場合によっては、目線を下げて隣人を注視しても、木鐸の道や国益を損なうとは思えない。
両国のロケーションは黄砂も渡る一衣帯水の隣組だが、現状では一連托生のお相手にはまだまだ覚束ない。しかし、今こそ腰をすえて、適切で広範な共生関係を築く好機だと思う。どんな場合も、余裕の有る側から進める方が、万事上手く行く。お隣さんは高度成長しているとは言っても、いろいろと深刻な問題を抱えている。有名な話だが、朱鎔基元総理は自分の棺桶も用意しろと、決死の覚悟を示して腐敗構造の改革を歩み出したが、一里塚もまだ見えない。
知人友人には中国人の好漢も多いので、言い辛いが敢えて誤解を恐れずに言えば、大多数の隣人は未曾有の経済成長に取り残されまいと、右往左往している。歴史的、原理的とも思える様な、拝金思想の宿痾から決別するのは、秋霜烈日の中共権力をしても一朝一夕には困難だろう。さて、半可通な能書き垂れるのは、この辺りで止めよう。
島田先生は宮中晩餐会から1年と数ヶ月後に、21世紀を目前にしてご逝去をされた。傘寿で晩餐会に臨んだ歴史学者は、日中両国の未来にどんな感想をお持ちになったのか、残念ながら今となっては聞く術もない。お聞きしてみたかったな。
カラリと晴れた亘った夏空が待ち遠しい。京都伏見は玉乃光酒造の「こころの京」と、冷水でキリリと締まった三輪そうめん山本の手延べ古物(ひねもの)を前に、碩学を偲びながら御用達の美味三昧と行きたいところだ。でも、冷蔵庫のフリーザーの奥に、分厚い霜をまとって張り付いている、怪しげな冷凍牛肉コロッケと発泡酒で「口中蛮惨会」がやっぱりお似合いだろうな。
(完)
