第16話 米中艦隊ご一行様の入港(1)

2007.11.23

中国籍の船舶に乗船するのはフェリーを除いて2度目だ。唐突な話しだが初めは亡命を企てた時だ。

 中国人民解放軍海軍の旅海級ミサイル駆逐艦「深セン号」が、新中国建国以来はじめて来週日本に寄港をする。歓迎式と特別公開の招待状が届いていた。この艦艇は今月21日に広東省の湛江港から出航したようだ。湛江港は深セン・香港から南西に約500kmのベトナムに近い軍港だ。

 国交回復35周年記念で日本が招待した表敬寄港で、12月1日まで4日間の滞在である。中国船籍の船舶(フェリーを除く)に乗船するのは2度目になる。

 唐突な話しだが初めは亡命を企てた時だった。ちなみに亡命者は成功すれば罪にならない、当たり前か。でも手伝った者は別だ。オッサンは日本人、亡命希望者は中国人で台湾籍だ。中台はお互いに主権を主張していたから、適用法規も日、中、台と複雑だな思った。

 いずれにしても亡命が失敗すると、台湾籍の彼は戒厳令下の台湾に強制送還となり重罰だ。もう37年前になるからとっくに時効だろうけど。

 僕は大好きな日本から亡命する理由や、度胸もないからプロデューサー役だった。まあ、平たく言えば蛇頭脱北ブローカーみたいなもんだね。亡命を希望した彼は10才以上も年上だから生きていればかなりの歳だ。その後なんの音沙汰もないから、天高く亡命して今頃は千の風かも知れないな。

 彼は台湾から都内のM大大学院に留学して、国際法の宮崎教授のゼミにいた。ひょんな縁で付き合いをはじめた。時々、横浜中華街裏通りの、ガタつくテーブルの中華メシ屋で度の高い老酒(紹興酒ではない)を酌み交わし話が弾んだ。

 聞けば幼い頃、新中国成立のドサクサで大陸の両親から、蒋介石国民党の後を追った親類に預けられ台湾に行ったのだ。言わば一族郎党のリスク分散で、戦乱や国の混乱時には係累が生き延びるための手段だったのだ。

 日本に来てマスコミ報道から初めて、竹のカーテンと言われた大陸情報を知った。素晴らしい国になった様だから大陸に戻りたい、両親が生きているうちに帰りたいと云うのだ。僕は浅田次郎の小説ストーリーのような、この手の話には若い時から滅法と弱かった。

 さっそく某大新聞がでっち上げた理想郷とも知らず、3流スパイ映画さながらに日本人客が来ない、華僑一家だけで商いをしている小さな店で亡命絵図を練り上げた。

 大陸では「文化大革命」という、名前には程遠い黄砂のような嵐が吹き荒れる1970年の春に決行した。深夜の横浜港税関をすりぬけて、手回しをしてある港外に碇泊している中共船「先鋒」を目指した。船籍番号は100103で1961年3月に大連造船所で造られた貨物船だった。2500トン位の大きさだった。

 ちょっと、ちょっと、タイトルの弾道から大分それちゃったね。若かったなぁ。いま思い出しても体が熱くなるんだよなぁ。いつか書いてみたいが、結構長くなるからブログでは無理かもしれないな。

(続く)